「青葉の笛」の結句の違い

「塞上笛は哀し吹きし者は誰ぞ」と私たちの会では読んでいるが、他で「塞下笛は哀し吹く者は誰ぞ」と読んでいる。

 「吹きし者」と「吹く者」では、前者は過去形、後者は現在形になる。転句で「戦雲収まるところ」とあるのだから、既に戦は終わっていて、笛の音は戦の前に聞いたものなのだから、過去形が正しいはずだ。

 こんな単純な違いがなぜ正されないできているのだろう。「塞上」「塞下」は、意味上は変わらないから問題ではない。

 また承句での違いもある。「平家の末路人をして悲しましむ」に対して「平家の末路転た悲しむに甚えたり」と読むのがある。『転た悲しむに甚えたり」の意味が判然としない。「ひどく悲しむことにに耐えた」という意味に取るのがいいのか、それにしても何かすんなり胸に落ちない。前者の『人を悲しませた」のほうがずっとよくわかる。こんな違いをどんな感覚で受け入れているのか、とても不思議な気がする。

 ひょっとして、作者の最初に作ったのと、それを推敲した詩の違いで、最初の詩をそのまま受けているのかもしれない。しかし、作者が推敲して作り直したことがわかったら新しい読み方に当然従うべきと思う。こんな違いが存在する訳がわからない。

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